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明治の町家   姫路の春霜堂  

明治の町家   姫路の春霜堂  

今東光先生伝

今 東光先生(1898年3月26日 - 1977年9月19日)は、天台宗大僧正(法名 今 春聴)・直木賞作家として有名で、晩年は参議院議員も務める。血液型はB型。文化庁長官を務めた今日出海は末弟にあたる。

横浜で生まれ、実父が郵船勤務のため、各地を転々とした後、9歳より大阪で育つ。関学中三年の1学期の終わりで退学になった後、豊岡中学に転校するも地元の娘と恋愛し素行が悪いと退学処分を受ける。その後上京し、画業に志すも、谷崎潤一郎の無給秘書を務めつつ文学の道に進む。川端康成らの第6次「新思潮」の発刊に同人として参加しながら映画の脚本なども手がける。「文芸春秋」にも参加するが、菊池寛と激しく対立し文壇を去る。

1932年に出家し、比叡山延暦寺で修行後、安楽寺の住職を経て、八尾市の天台院の住持となる。この頃から作家活動を再開し、谷崎潤一郎の後押しで吉川英治に注目され、『お吟さま』で直木賞を受賞する。『悪名』『闘鶏』など、「河内もの」を立て続けに発表し、流行作家となる。『悪名』は勝新太郎・田宮二郎出演の映画となりシリーズ化されヒットする。

その後、大僧正となり中尊寺貫主を務める。貫主時代に瀬戸内晴美を得度させ、その後、参議院に立候補、当選し一期務める。

型破りな性格として有名で、数々の過激発言を残した。持ち前の「毒舌」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、週刊プレイボーイの過激な人生相談『極道辻説法』でも知られた。余談だが、この本の所々で私も顔を出している。多くの場所で、下ネタを連発した為、巷間「エロ坊主」とも言われた。

結腸癌に肺炎を併発し、千葉県四街道市の病院で死去。享年79歳は実母をしのげず、これは心残りだったかもしれない。
墓所は東京・寛永寺第三霊園、戒名は大文頴心院大僧正東光春聴大和尚。



■ 東光先生 年譜

明治31年(1898)
0歳 3月26日、父・武平(当時31歳)、母・綾(31歳)の長男として、横浜市伊勢町に生まれる。父は欧州航路の船長をしており、小学時代は転校にあけくれた。武平は神智学に、綾は文学に造詣が深かった。

明治40年(1907)
9歳 各地を転々とした後、大阪に住む叔父、木村一、方に寄宿。陸軍軍人だった叔父の厳格な教育に反抗した。この反骨精神は終生続いていく。

大正3年(1914)
16歳 関学中で退学になる。神学部の院長の娘と恋愛事件を起こしたという理由だった。豊岡中に転校、ここでも2学期に恋愛事件を起こし、それがキッカケに退学処分を受ける。上京し、東京・小石川の叔父の斎藤方に寄宿。大平洋画塾に通い、画家を志す。暮、父より勘当される。この頃の多感な青春期を描いた作品・映画に『悪太郎』がある。

大正9年(1920)
22歳 文学活動の中で、川端康成と出会う。テンプラ学生として東大の講議を受けていた。豊岡中時代、放校の理由になった恋人、岡本直子の病死を知る。

大正10年(1921)
23歳 川端康成らの第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『女人転身』『童女』などの作品を次々と発表。菊池寛は「あれは不良少年じゃないか。中学さえ出ていないくせに、君たち仲間のような顔をして、大学の教室へ出入りしているという話だ。新思潮は元来、一高と帝国大学の卒業生で作られている。今 東光のような不良少年に参加させるのは、伝統に傷をつけるものだ」と言って反対したが、川端に「今君を仲間に入れられないなら、新思潮をやる訳にはいきません」と言われて、しぶしぶ東光の入会を認めた。

大正12年(1923)
25歳 創刊された「文芸春秋」の同人となり、随筆などを発表。この頃には菊池寛も東光の力量を認め、弟子を持たないことで有名な谷崎潤一郎に「谷崎さんも、今のような男を弟子に持っているとは、流石だね」と言うまでになった。しかし、やがて文壇史に残る喧嘩をはじめてしまう。東光は文芸春秋脱退後、数々の雑誌で菊池を攻撃、一方、文芸春秋側も直木三十五が東光に応酬する等激しいバトルが展開され、やがて東光は文壇からの孤立を余儀なくされていく。

大正14年(1925)
27歳 『痩せた花嫁』を金星堂より刊行。新聞・文芸誌等に積極的に作品を発表する。

昭和5年(1930)
32歳 5月、浅草寺伝法院で、大森亮順大僧正を戒師に出家。以後、昭和8年まで延暦寺に籠り、修行。『極道辻説法』にこの頃の修行の様子が語られている。

昭和9年(1934)
36歳 比叡山より下り、茨城県安楽寺に入る。

昭和13年(1938)
40歳 「運命学」に『易学史』を連載。日本で初めての本格的な研究で、専門の漢学者からも高い評価を受けた。今尚、この『易学史』は易学を研究している者の垂涎・幻の書とされている。

昭和21年(1946)
48歳 11月、蜂谷きよと結婚

和26年(1951)
53歳 大阪府八尾市中野の天台院の住職となる。闘鶏等に興じる。

昭和31年(1956)
58歳 中外日報社社長に就任。母・綾、死去。『お吟さま』を、裏千家家元の機関誌「淡交」に連載。

昭和32年(1957)
59歳 『お吟さま』により、第36回直木賞を受賞。久々の文壇復帰として話題を集めた。新聞、週刊誌に多数の連載を発表。

昭和33年(1958)
60歳 帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短大の講師として比較文学を講議。

昭和36年(1961)
63歳 貝塚市の天台宗水間寺住職に就任。

昭和40年(1965)
67歳 『東光太平記』を産経新聞に連載。権大僧正となり、中尊寺の貫主に就任。

昭和43年(1968)
70歳 7月、参議院選挙に全国区より自由民主党より立候補し、石原慎太郎氏と共に当選。選挙活動の応援には親友の川端康成氏も駆けつけた。昭和49年まで一期を勤める。

昭和47年(1972)
74歳 4月、親友・川端康成を失う。

昭和48年(1973)
75歳 11月、瀬戸内晴美氏出家剃髪。法名寂聴。

昭和52年(1977)
79歳 9月19日、示寂。戒名は大文頴心院大僧正東光春聴大和尚

■ 著作リスト

稚児(鳳書房、1947年)
人斬り彦斎(東京創元社、1957年)
みみずく説法(光文社、1957年)
お吟さま (淡交社、1957年)
春泥尼抄 (講談社、1958年)
東光金蘭帖(中央公論社、1957年)
悪太郎(中央公論社、1959年)
悪名(新潮社、1961年)
東光毒舌経 おれも浮世がいやになったよ(未央書房、1966年)
今氏・易学史 (紀元書房、1966年)
毒舌日本史 (文藝春秋、1972年)
泥鰌おっ嬶ァ (番町書房、1974年)
おゝ反逆の青春 (平河出版社、1975年)
極道辻説法(集英社、1976年)
吉原哀歓 (徳間書店、1976年)
十二階崩壊 (中央公論社、1978年 絶筆)
毒舌・仏教入門 (祥伝社、1990年)

■ 今東光語録


 人生とは 何もやらない虚無よりも
 たとえ失敗しても 傷心の方が
 はるかに 貴いものだ


 生きていく上で愛くらい大切なものはない。
 愛とは男女間の愛だけでなく、自分の仕事を愛する、自分自身を愛するなど、
 愛というものがすべての基本である。
 
 愛のない人間は人間の屑である。
 しかし、愛というものは非常に難しく、愛の使い方は更に難しい。


 生きるとは、闘うことである。人を生かすとは、勇気を与えることである。

 大欲を持て! 
 大欲を持つということは、人間の生きていく上において、
 自分の才能をも生かせるわけだ。とにかく、大欲を持つことだ。


 知識ばかり成熟しても、それを裏付ける体験がなければ偽物だ。


 運とかツキが努力によって得られることはない。
 人生自体、努力をしたから必ず報いられる訳ではない。
 どんなに努力しても運が開けるというものじゃなくて、努力しているうちに
 なんらかの意味で運が開けてくるものである。
 努力すれば必ず運がむいてくるという教訓自体が大変利己的で駄目だと思う。


 人生で一番大切なものは、正直であり、誠実であり、愛情である。


 つまらない中で、どうしたらつまるか、
 つまり、つまるものを見いだしていく発見だ、この能力を養わなかったら
 人生はどうにもならない。
 
 どこへ行ってもつまるものを発見する能力を養う。
 能力というより、そういう努力をすることだ。


 人間ほどおもしろい動物は、ねえ。
 誰と会えたか、その積み重ねだけのものだよ、人生なんてものは。


 人生は冥土までの暇つぶし


■ 交遊録

東京で画の勉強を行っていた際、伯父の使いで森鴎外の観潮楼へ『渋江抽斎』の執筆資料を届けたこともある。同時期に画家の関根正二、東郷青児とも交友があった。ある音楽会の席上、武者小路実篤の紹介で夏目漱石とも一度対面している。28歳の際に阪東妻三郎プロダクションの顧問になる。
退校となった関学中の後輩、稲垣足穂を高く評価していたが、足穂自身は在学中に今から殴られたことがあるらしく、友人が「今東光の所へ遊びにいこう」と言っても「あいつから殴られた恨みが消えないんで行かねえ!」とへそを曲げていたという。ちなみになぐった東光本人は「オレなぐった覚え、ねえんだよ」とすっかり忘れていた。
小学校の同級生尾崎士郎も東光にのべつ殴られて、故郷岡崎に逃げ帰ったという。ただし東光はこのことを全く憶えておらず、士郎の作り話だったかもしれないと述べている。
谷崎の秘書を務めていた当時は意図的に柔弱な文学青年の身なりをしてカフェに入り、チンピラに言いがかりをつけられるやいなや、喧嘩を売られると表に出て相手を半殺しの目に遭わせ、「やい。文学をやってる人間は皆な優さ男の意気地無しと思うなよ。俺みてえに喧嘩が三度の飯よりも好きな奴もいるんだ。見損うなよ」と啖呵を切っていた。
「鎖に繋がれていない犬、首輪のない犬たちの会」という作家の集まりである野良犬の会会長を務めた。副会長は柴田錬三郎。事務長は梶山季之。会員には井上ひさし、陳舜臣、野坂昭如、吉行淳之介といった面子が顔を揃えていた。


■ 極道辻説法の相談から

(相談者)「親友はどのようにしたら出来ますか?」

(回答)「そういうことを質問するテメエぐらいバカはいねえんだよ。なぜテメエがだよ、テメエ自身がいい友達になってやるっていう覚悟をしないんだよ。


(相談者)「男の生きがいとはなんですか?」

(回答)「男の生きがいってもんはな、生きてて満足だっていうのが生きがいだよ。なにとぼけたこと言ってんだコノヤロウ」


(相談者)「人間はなぜ人を好きになるんですか?」

(回答)「じゃあ、なぜ嫌いになるんだい? オレなんかやっぱり人間好きだもんな。人間が好きだからこう文学も絵も書けるんで、嫌いだったら出来ないよ。しかし、人間には欠点がある。逆にこの欠点があるからこそ愛せるんだよ。欠点がなかったら神様や仏様みたいなもんで、これは彼岸の人だ」


(相談者)「人生とは何ですか?」

(回答)「いい言葉を教えてやろう。それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉だ。遊んで遊んで遊び尽くせば何かに突き当たって掴むものがある。何もやらない戯無よりも、たとえ失敗しても傷心の方がはるかに貴いものなんだ。空々寂々たる人生なんて糞食らえと思うべし」


(相談者)「仕事が忙しくて友達ができない」という悩みを抱えた22歳の左官に

(回答)「オレはおめえの言うこと聞いてて、もっとも情けなくなるのは、どうしてそんなに友達が欲しいのかっていうことだ。友達なんて要りゃあしないよ。自分が立派になりゃあ、向こうが友達になってくれと来るんで、友達なんてものは、いくらたくさん持っていたところで、いざとなって役に立つっていったら、一人もいないもんだ。友達なんてものはそんなもんでね。バカこくな!  (中略)

何もつまらん女をひっかけたり、友達作ってストリップを見に行ったりせずとも、ひたすら壁を塗りまくれ!金を使うひまがないんならなお結構な話じゃないか。
塗りまくって金を貯めまくりゃあ、いくらでもいい嫁をもらえるじゃねえか。
何をぐだぐだ言いやがる。しっかりせえ!」




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